スポンサーサイト

  • 2019.03.04 Monday

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 0
    • -
    • -
    • -

    「説教ババア」のたわごと

    • 2018.09.29 Saturday
    • 16:15
    はい、説教ババアが通りますよ、と。






    まあ20才と言う事で、このぼくのりりっくのぼうよみさん(で良かったでしょうか)。
    あのお名前はお見かけした事はありますが、お名前からしてアレかな、もうババアには関係の無いアーティストかなと思っておりまして、実際そうみたいですけれども。

    時系列としては20才にしてご自分の天才的な才能の重圧に耐えられず、凡人として生きたいと。
    その後賛否色々のご意見からすったもんだで上のツイートになられた様ですが。
    その辺の事は別にどうでもいいのね。

    音楽を売る人がいて音楽を買う人がいる→対等な関係。こちらについては理解出来ます。
    ファンにヘコヘコする必要も無いし、聞く人がいると言う事に感謝するかどうかはアーティスト個々人の自由だと思います。
    私が引っかかるのは「アーティストにも客を選ぶ権利がある」と言う所です。
    これはどういう基準で選ぶんでしょう。

    例えばですね、高級レストランとかのドレスコードですとか、京都の老舗料亭の一見さんお断りですとか、会員制のバー的なものとかなら明確な基準がありますよね。
    衣服や紹介制による信用や高額な会費、それらを無理なく手にできるだけの収入や地位を保証するという事ですから。

    でもこの場合の「客を選ぶ権利」は文脈から見てアーティスト側の単なる好悪による様に思えます。
    不可能な事ではありません。
    それでも良いと彼にとって理想的なファンであろうとする人が一定数いれば、ある程度の規模でその商売は成り立つでしょう。
    ある程度の規模ならです。

    ようやっと成人に達した彼にはまだ見えないかもしれませんが、彼がぶっちゃけた本音はメジャーデビューしたミュージシャンなら誰でも感じている事だと思います。
    メジャーと言うのはそう言う世界だとウン十年とバンドを見続けていて、そう思います。
    大体音楽を貪る様に聞く人間なんてのは、何か満たされないものを抱えてその隙間を埋めたくて必死に聞くんです。
    自分でも気持ち悪いなと思う位聞くんですよ。
    貴方が本当に圧倒されたのはそういう気持ち悪い程聞き込んだ人達からの切羽詰ったほどの期待じゃないんでしょうか。

    メジャーシーンに置いて「客を選ぶ」事は現時点でほぼ不可能だと思いますよ。
    頑固親父の料理屋で俺の料理が分かる舌のやつにしか食わせない、みたいな事をやりたいのだったらインディーズで十分じゃないですかね。
    まあ音楽をこれから続けるのかどうかも分からないけど。

    貴方の苦しみは貴方のものであって、こちらが担うべきものじゃない。
    聞く側の苦しみは聞く側のものであって、アーティストにぶつけるものじゃない。
    金銭の授受によって対等なのでは無いんです。
    そこを間違えたから「説教ババア」が湧いてきちゃったんじゃないのかなw

    まあまだ20才ですし、お金沢山稼いだでしょうし、何か真剣に取り組めるものにまた出会えると良いですね。
    前途洋々、広い世界に生きてください。


    美しきアイロニー

    • 2018.08.10 Friday
    • 23:55
    あれ、なんだかまたずいぶん書いてないわ。
    今年の夏はなんだか慌ただしい…。
    気持ちが落ち着かないなぁ。あれ、不惑って四十のはずなんだけどなぁ…。
    歳をいくつ重ねても、いや重ねれば重ねるほど自分という存在の心許なさに気づくと言うか。
    自分というか人間というか、素粒子の話なんか考えだすと、あれ、てことは素粒子レベルになれば私という一個の肉体も固まりのように見えるだけで、単なる粒々の集まりって事で、ただ他の分子が大きいから通れないと言うだけであって、じゃあその粒々がなぜに集まって離れないのだとか、この酷暑に任せて考えていくと、日々の糧を稼ぐと言う手垢にまみれた聖なる行為がつい疎かになる。

    要約すると暑くて働く気になれぬ、と言う事ですね。
    久しぶりで筆が荒れていますね。


    雑事に追われていて、ちょいちょいとしか大輔情報を追いかけられていないのだけども。
    今シーズンのプログラム(などと書ける日が来るとは…涙。未だに信じられないけど幸せですなぁ)の曲が発表されて、まあ、あのSPのシェルタリングスカイは、あーこれは絶対に良いやつー似合うやつーとか勝手に思ったけれど。
    フリーの曲を聴いた時、なんかほんと、すごい人だなと思ったですよね。

    4シーズンぶりの復帰で、初めましての振付師さん、リショーさんと言う方ですよね、しかもリショーさん側からのオファーだとかで。
    おそらくジョン・グラントの曲を持ってきたのもリショーさんなのかと推測しますけども、振付師さんや曲の選定とかを見るだけでも、あぁこの人は本当に極めようとしているんだな、と言う静かで冷静すぎる程の覚悟を感じると言うか。

    もちろん引退する前だって、私には計り知れない並々ならぬ覚悟があったろうけれども、国内外問わずその競技の顔と目される選手に於いては、プラス面だけではないくびきと言うか縛りと言うか、足枷とまでは言わなくともそこから先へは行きたくとも行けない場所、と言うものがあったのではないだろうか。

    それが…いまや自由である。
    そのポジションは今は他の選手が担ってくれている。
    恐らく現在のルール上、彼が今のトップ選手達に点数で上回る事はないと思われる。
    だがそこが重要なのだと、私は思う。

    チラと見せて頂いたSP、FPの練習動画。
    まあ、もうその、言わずもがな感嘆のため息しか出ないわけだけれども。
    あれにアレでしょ、本番はガガガってパッション迸るんでしょ。かーっ、ってまあちょっと落ち着いて。

    復帰にあたって彼は勝つのが目的なのでは無くて、自分自身の為に滑りたいと言っていた。
    恐らく今後出場する試合でも、以前ほど点数を意識して滑る必要は無いだろう。
    ただその日の試合でその時自分の思い描く最高の演技を、と言う気持ちで挑まれるのでは無いだろうか。

    それってつまり、一番強いんじゃないかと思う。
    現行ルール上で一番点を取れる、という意味ではない。
    あの高橋大輔が、無心で演技をする、のだ。
    これ以上に強いものがあるだろうか。

    彼はきっと純粋に心からスケートを欲して、また今後のパフォーマンスの事も見据えての現役復帰だろうと思う。
    でも今の競技の場に彼の演技を持ち込む事は、この上なく鮮やかで美しいアイロニーだと私は思う。
    それを現場の人々がどう受け止めるのか、見て見ぬ振りをするのかは知らない。
    また彼がそう言う目的を少しでも意図しているのか、そうでないのかはご本人でなければ分からない事だけれど、単に側から見るだけの野次馬みたいな私からすると、その美しいアイロニーをただ待ち焦がれるだけである。


    それから村元哉中さんとクリス・リードさんのペア解消。
    先シーズンのFDがとても好きだったし、年々素敵なペアになるなぁと思っていたので残念至極です。
    外野からでは分からない事情もあるのだろうけれど、もう少しお二人のプログラムを見たかったなぁ…と。
    お二人とも良きパートナーを得られます様に。


    王者の帰還…!

    • 2018.07.01 Sunday
    • 18:21
    いや、もうさっき知ってびっくりした。
    びっくりし過ぎて変な声出ましたし。

    その、ファン歴浅い私が言うのもアレなのですが、今年はオリンピックの後ゼロのキャスターも辞められて、アイスショーには出られておりますけども、ここ2、3年に比べて活動が緩やかだなあ、などと思っていて。
    こちらもお猿のおじさん達との二足のワラジなもので、なかなか細かい動向などは追えずにいたので、全くの寝耳に水。

    何となく、あぁもしかして、そろそろカンパニー的なものにがっつり取り組まれるのかしらん、そして数年後ジャーンと発表されたりするのかなあ、なんて思ってたりもした。

    それが。
    まさかの。
    高橋大輔!! 現役復帰!!!!

    なんかもう勝手に色々とまあ、私なんかが思っても詮無い事が浮かんだりもするけれども。
    でも何より!大きな声で「ありがとう!!!!」と叫びたい!

    ご本人はこれから、もしかしたら今までよりも過酷な選手生活になるかもしれないけれど、とにかく私は一体どんな演技を見せてくれるのかと今ワクワクしています。

    何をどう言っても今は野暮でしかないね。
    ものすごく芯の強い方だとは思っていたけど、私なんかが思う以上に彼はファイターだったんだな、と思った。
    迷いを振り切られたのならば、存分に氷の上であの媚薬と言っても過言ではない、音楽との融合を見せて欲しい。
    て言うか見せて下さい、お願いします!

    本当に心からありがとうございます。
    何を言わずともきっとご自身で実り多き再チャレンジになさると思いますが、幸多き道のりとなりますよう、陰ながら応援しております。

    …あぁ、めっちゃ嬉しい…。



    愛して欲しい

    • 2018.06.30 Saturday
    • 23:02
    昔見た映画で、アメリカの映画だったけど、詳細は忘れてしまったが、長年同棲していた恋人同士で、女性の方があまり感情表現の長けた人ではなくクールなタイプで、不安を募らせた男性が本当に自分を愛してるのかあの手この手で引き出そうとする。
    北風と太陽みたいなもので、そうすると女性の方は更に頑なになっていき、ベッドの中でさえ問い詰める彼氏にウンザリして、アイマスクと耳栓をして寝ようとする。
    そうこうする内に彼女の心は別の人(女性)に移ってしまい、結局お別れしてしまう。
    しかし新たな女性の恋人も件の彼氏と同じ様になっていき、彼女はまたアイマスクと耳栓をする羽目になるのだけど。

    どうしても人は、自分が愛されているのかを確かめずにはいられないものらしい。

    私はどちらかといえばアイマスク派なので、愛して愛してとアピールされると少々うんざりしてしまう。
    愛してアピールには色んなものがあって、どストレートに表してくれればまだ良いものを、手を替え品を替えしてまるでアピールしてませんと言うタイプまで様々だ。

    個人的に苦手なのは健気なタイプ。
    自覚はなくて体や行動から滲み出るようなものだ。
    それは外因的な環境から起こる事が多いと思う。なのでその人そのものに起因しているわけではないので、責める気は毛頭無いのだが、何かしらこちらの手落ちを責められているような気がして直視出来ない。
    誰かがその人を心ゆくまで愛してあげて欲しいとは思う。
    でも愛はその壺の底が分からない。底が抜けている場合すらある。
    満ち足りるまで注げるか、穴を塞がなければならない場合もあろう。
    どの道その人の、骨の髄まで付き合う覚悟がなかったら、おいそれとは関われない気もする。

    そして取り分けウンザリするのは、アピールもせず、その自覚もなく、勝手に人の愛情を断りもせずふんだくっていく人達。
    自分が人に愛されていると信じて疑わない人に多く見られる。
    愛があることに慣れすぎて、まさか自分に愛が与えられないなどとは思っていないのだ。
    もしくは私はこれだけやったから愛されるべきだ、というべき論の人もある。
    何々なのだから私を受け入れるべきだ、と立場を利用する場合もある。

    別に宗教家ぶるつもりはないが、皆が皆愛を与えてくれと喚き立てる人が多すぎる。
    愛はそもそも与えられるものじゃないと、私は思う。
    ギブアンドテイクみたいに分かりやすいものじゃない。

    例えば同じ家に住んでいたりして、暮らしに纏わる雑事をお互いに分担したり、助け合ったりするのは、愛というより日常に必要な思いやりだ。
    格別相手を愛しているからと言うわけではなく、単なる共同生活において必要な事である。
    その思いやりすら持てないのはまず、もう一度暮らすという事を考えなくてはいけない。
    (まあ、そう言う人は多いと思うけど)

    でも愛には定義がない。
    定義がないものだから、相手に求める事は不可能だ。
    愛される、と言うのは万人に平等に与えられるものではない。
    それだけ奇跡的な事なのだ。

    私としてはもう少し世の中が愛する、と言うことに重心を置いてみたらどうかと思っている。
    愛されたい、に重きを置くと人は際限がなくなる。愛ばかり貪り食うモンスターみたいになる。
    でも愛するって意外と疲れるのだ。
    そんなに際限なく愛を与えられる人は居ない。やっぱり人ですから。
    もちろんそれが過剰になってはいけないが、愛されたいというのは放って置いても湧き出てくる食欲みたいなものなので、意識的に愛するにシフトした方が心のダイエットがうまくいくのじゃないのかな、などと。

    与えても損になるものなど、この世には無い。
    誰かの愛を貪り尽くす前に、愛する側の人が増えていくように、私は今日も愛する側の人であるようにと思う。

    ゴミと生きる

    • 2018.06.30 Saturday
    • 18:01
    毎日毎日暮らすだけで、片付けても片付けてもゴミは生まれる。
    生きると言う事はゴミを産む事だと言っても過言ではない。
    生ゴミ、紙ゴミ、プラスチック、果ては家電や家具など、消費社会において生まれる最大の資源はゴミだと思わざるを得ない。

    今週、偏頭痛がひどくなり一日仕事を休んだ。
    仕事はいい。私が休んでも代わりに働く人がいる。
    でも家事は違う。
    一日休んだだけで、ゴミが溜まる。洗濯物が溜まる。洗い物が溜まる。
    たった一日で汚れが増える。

    言っても私は決して綺麗好きですとは言えない。
    いや、綺麗な部屋には住みたいのだけど、息子が小学生に上がったくらいからこっちが片付けるペースより、やつの汚しスキルの方が右肩上がりになってしまった。
    たった2人しか住んでないのに、どなたも家には呼べない有様。
    しかもここ数年は私の疲労度も年々上がり、なかなか大片付けに取り掛かるバイタリティが不足していて、全く悪循環である。

    それでも生ゴミだけは溜めないように、洗い物だけは溜めないようにと気をつけてはいるが、たった一日なのに、なんでやろうとつい思う。

    食べたり飲んだりする度に、ゴミは増える。
    捨てても捨てても増えていく。
    この社会の中で生きる、という事が少し虚しくなる瞬間。

    でももう人間は野生には戻れないのであって。
    なるたけゴミを出さないようにするしかないけれど、既存の社会構造で経済活動を続ける以上決して減る事は無いだろう。

    パン屋さんで焼きたてのパンを自分の家から持参したバスケットに入れて帰ったり、肉屋さんや魚屋さんに持参したタッパーに詰めてもらったりしない限り、パック詰された商品を家に持ち帰るしかない。
    でもそうするには色んなお店がやっている時間に買いに行けなくてはいけない。
    皆が皆、朝から晩まで働いている世の中では到底無理だ。
    深夜まで開いているスーパーや、コンビニはとても有り難いのも事実だし。

    何のために生きているのかという所まで来てしまう。
    もう少し自然に、生きる事は出来ないものか。
    本当にここまで必要なのか。
    卵のパックと肉のパックをゴミ袋に入れながら、抵抗できない流れの中で生きる事しか人にはできない時もあるのだよ、と自分に言い聞かせる。

    間違えて生きているわけではない、と思いたいだけだけど。

    悠久の時

    • 2018.06.23 Saturday
    • 23:18
    映画『フジコ・ヘミングの時間』を観る。

    この余りに数奇な人については今更多く語るまでも無い。
    ただふと目にした映画の予告で、猫とピアノとアンティーク、私にとって心地良さそうなものしかなさそうだわ、と思って仕事帰りに足を伸ばして観に行った。

    何より印象に残ったのは、ピアノの前でのフジコさんの存在感である。
    あれだけ大きなフルサイズのグランドピアノの前に座って、ピアノ自体がもはや感じられないほどに、何か音を吸って増幅してでもいるかの様な感じがした。

    勝手なイメージではあるけれど、一般的なピアニストの演奏の場合、ピアノという黒と白とで構成させれているシンプル且つ難解な問題に対し、どの様なアプローチで解答していくかと言うような、磨き込まれた解釈の美しさの様なものを感じる事が多い。
    でもフジコさんの場合、あの年齢で現役のピアニストという事自体がまずもって異例だけれど、それ以上にピアノ自体への向き合い方が異質というか、独自すぎる様に見えた。
    あれだけでかいグランドピアノを喰う、と言うか、決して暴力性を感じるわけでは無いのだけど、弾けば弾くほど増幅する彼女の存在感にピアノが飲み込まれていく様な感覚になった。

    ラ・カンパネラはフジコさんの代名詞であるけれど、映画の中で昨日の私に一番心に入ってきたのはショパンの「別れの曲」だった。
    あの超有名な曲だけれど、ショパンらしいとても美しく叙情的な旋律が、時折少々大げさな、ドラマチック過ぎる様に思えてそこまで好きな曲でも無かった。
    でもフジコさんの別れの曲は、あの一番の山場の後の切ない旋律を、柔らかくサラリと弾いていらして、胸を引き裂かれそうな別れの後にのたうち回って号泣し、自分を憐れんで泣く様なイメージではなくて、淡々と生きながら働きながら、それと意識せず一筋涙を流す様な真実が感じられた。
    沢山の別れを体験し、見聞きしてきた年月の裏打ちを垣間見た様な気持ちになった。

    そしてやはり私の様なものがさすが、なんておこがましいけれど、世界各地のフジコさんの家がどれも素晴らしい。
    絢爛豪華と言うのではなく、パリならパリの、京都なら京都の、東京いや下北沢なら下北沢の、サンタモニカならサンタモニカのその土地の空気をそれぞれ感じ取り、体現した様なインテリアで、こんなことを言うのは絶望してしまうけど、センスとはあるものないものがハッキリしているものだと改めて。

    個人的にはサンタモニカのお家もとても好きだけれど、パリのお家がフジコさんには一番似合っていらっしゃるように思えた。

    何か少し切ない程に、お母様への愛を深くいじらしいくらい持っていらして、何とも言えない。
    一度お若い頃にピアニストとしての成功を断念せざるを得なかった頃、それから20年ピアノ教師として暮らしていらしたと言うが、そこから例えば別の人生を選ぼうとは思われなかったのか、少し聞いてみたい気持ちになった。
    例えば誰かと結婚したってピアノ教師はできただろうし、子供を持つことも。
    彼女のどこかでそういった普遍的なものの中に組み込まれる事を良しとしない気持ちの根幹に、お母様の存在があったのだとしたら。
    だからこそ今のフジコさんがあるわけだけれど、私が思っても仕方のない事ながら、やはり運命の天秤と言うか、そうせざるを得ない道のりと言うか、単純な良し悪しだけでは語れないものを感じる。

    フジコさんを見ていたら、人の中に本来流れていたはずの悠久の時間みたいなものをすごく感じた。
    大きな大きな、人知を超えて存在したはずの悠久の時。
    いつからかそんな時を抱えて生きる人が少なくなってきて、いずれどこにも居なくなってしまうのかもしれない。
    私ももしかしたら既に手離しているのだろうか。気づいていないだけで。

    悲しい事がない人生って言うのもどうかと思う センチメンタルなのもいいじゃない
    この言葉は忘れないように生きていこうと思う。

    大いなる失恋、とでも言おうか

    • 2018.06.20 Wednesday
    • 23:37
    少しずつ落ち着きを取り戻しつつある。
    でもまだ余韻は残ってるけど。

    つい先日、長い年月憧れ続けた人に、正確にはそのお一人とお仲間にお会いする事が出来た。

    時間にすればほんの5分くらいだろうか、何しろテンパり過ぎていて正確には分からない。

    全くの幸運で会うことが出来たのだけれども、直後私が感じたのは人生で一番の羞恥心だった。
    恥ずかしい、しかなかったのである。

    もっと正確に言うと、お会いした瞬間から恥ずかしかった。
    何度となく遠くから拝見しているのにも関わらず、いざ同じ地続きに至近距離で接した時から逃げ出したくてたまらなかった。

    会えると言うことになった時、辞退しようかどうか迷った。
    まさか本当になるとは思っておらず、瞬時に無理、と思ってしまったから。
    しかしながら、もうこれから先二度とない機会である事に違いなく、とにかく行ってみようと決めてみた。
    決めてはみたが、甘かった。
    そりゃ勿論緊張するであろう事は容易に想像できたし、実際そうなるだろうと思っていた。
    思っていたけど、やって来た緊張は私の予想をはるかに上回るとてつもないド緊張だった。
    そして、人は経験したことのない緊張に見舞われると精神的に繕ってるものが全部取っ払われるんだな、と知りました。
    下から出てきたのは、大人になってすっかり忘れていた『人見知り』。
    知らない人達ばっかり(当たり前だけど)の中、もう一つ忘れていた事がありました。
    私は背の高い男性が少々苦手、素直に言えばちょっと怖いのです。
    目の前に現れた憧れの方とそのお仲間の皆様は全員180センチ前後の大柄な男性。
    声が上から降って来るのに、より緊張の針がMAX側へと振り切れました。

    何度か顔を上げてはみたが、直視する事も出来ず、とにかく殆ど下を向いていたと思う。
    一刻も早く帰りたい、消えたい、と思っていた。
    そうしたら最後に伝えたいことを言えと言われて、そもそも今帰りたいしかない私の頭は大混乱、でもわざわざここまで来るくらいのファンなのに、いえ特にとも言えず、絞り出したのは…「大好きです」………

    これがまあその、うら若き乙女ならば可愛い話や〜と思います。
    しかし私はいい年のおばさん。
    子供は高校生。
    つまりは経産婦。痛い思いもしました。
    そりゃ、大したことない人生ですけども、それなりにはあったし、自分なりには懸命に生きてきたつもりです。
    少しは大人としての核、みたいなものが出来てきたのではないかな、などと思っていました。
    それなのに。
    今この目の前の出来事に言葉一つロクに出ない。
    緊張してるからと言っても、もう少し何とかなると思っていたのに。
    初対面の方に、向こうからしたら見ず知らずのおばさんからの突然の告白。
    少しばかり自分へ持っていた信頼のようなものが、足元から音を立てて崩れました。
    目の前が真っ暗です。

    私の人生経験なんて、全く役に立たなかった。
    年齢的にそれは結構辛かった。
    20年近く憧れていた人に会えた喜びより、まるで見せかけだけの張りぼての様な人生だったのかもしれないと思ってしまった事がショックだった。
    誰だって自分の人生はそこそこマシだと思いたいものでしょう。

    情けなくて恥ずかしくて、帰宅後私は胃痙攣を起こし、翌日からは精神的ストレスからと思われる口角炎を発症。
    ここまで書くと少し面白くなってきましたけど、でも未だに恥ずかしさは残っている。

    ので、私は少しやめてみる事にした。
    その人に纏わるものに触れるのを。
    全くその方にもお仲間の皆さんにも落ち度は無いのだけど、チラとその端にでも触れるとあの強烈な羞恥がぶり返してきて、ちょっと日常に支障を来すので。
    関連するものも全て箱に詰め、目に見えない所へとしまった。
    しばしのお別れです、まあ、勝手に。
    今でも憧れているし、好きな気持ちは少しも変わりないのだけど、この羞恥を何とかして乗り越えない限り、もう一度素直に受け止める事が出来そうにないので。
    私は私の体からはどうしても抜け出せない。
    自分で自分を恥ずかしいと思う事は辛い。

    結局私は、緊張によって剥かれた私の実態に何の自信も無かったのだろう。
    だから恥ずかしかったのだと、今は思っている。
    私は私を心底好きだと言えないから、恥ずかしかったのだと思う。
    だから私は自分を本当に好きだと言える様になっていきたい。
    その為に今回、大いなる失恋とでも言いたい経験をして、良かったと思う。

    まっすぐな喜びを感じられなくて本当に残念だったけど、でも衝撃的な経験でした。
    気持ち悪いおばさんで申し訳なかったですが、本当にありがとうございます。
    またいつかあなた方のもたらしてくれる物を、真から楽しめる日を夢見て頑張ります。

    触れずにおきたい

    • 2018.06.14 Thursday
    • 15:08
    問題だったが、この流れが気持ちが悪くて。

    国のために私がいるわけではなく、たまたまこの国に生まれただけだ。

    国家という概念に思うところはそれだけだ。
    それ以上でも以下でもない。

    どの国に生まれていても同じ事。


    この国が好きだと言うのも自由だが、この国が好きでもなんでもないという人間が存在するのもまた自由だ。

    選んで生まれたわけでもなし、国などと言う概念にそこまで入れ込む事は思っているより危険な事だ。

    全て終わった時、全て喪失していたなんて事にならないといいね。

    Island

    • 2018.06.04 Monday
    • 23:39
    ああ、もうとにかく今日は疲れた。
    疲労困憊だ。

    一週間を乗り切るエネルギーを使い果たしてしまったと、帰る道すがら淀んだ空気を身に纏っていた。

    ボロボロの母に息子は優しかった。

    ボロボロの私に吉井和哉は詩を届けた。

    どちらも同じくらい私を救った。
    息子は現実の手触りで。
    吉井和哉は奥底の温もりで。

    生活は容赦ないけれど、ありがたいことに救いはあった。

    歯を磨いて、顔を洗って寝よう。
    シャワーは明日浴びるとして、とにかく私は寝なければ。
    寝て、また明日を生きなければ。

    ありがとう、息子。優しい熱を。
    ありがとう、吉井さん。震える詩を。

    おやすみなさい。混沌の世界。


    誰の手を握るのか

    • 2018.06.03 Sunday
    • 00:03
    映画「万引き家族」を見る。

    私の(違うけど)ケイト・ブランシェット様が大絶賛の、ま、それじゃなくても観ると決めてたけども。
    ボブ・ディランを描いた映画、「I'm not there」で誰の演じたボブ・ディランよりケイト様のディランに一番グッと来てしまったのですよね、是枝監督には関係無いけど。

    最後のシーンで、思いがけず、いや気になっていたから余計にかもしれないけど、何とも言えない取り返しのつかない様な絶望が日常の中に溶け込んでいるのだと言う事に、痺れのような鳥肌がたって涙が出た。

    すごいラストシーンだと思う。

    どの場面も一つ一つ切り取っても、きちんと重みのある手触りがあって、意味があって。
    今まで観た是枝監督の映画の中でも「日常の生活」が真に迫っていて、樹木希林さんの存在もさることながら、やはり安藤サクラさんのもたらしたものが大きかったように思う。

    終盤でケイト・ブランシェットが褒め称えていたであろう、安藤サクラさんの演技。
    ほぼ顔のみが大きく映し出されて、背景も何もない。
    役の信代と対峙している様な感覚になってしまった。
    私は、本当に、正しいのか。
    何も自分を絶対正義だと思っているわけではない。でも社会的に非難されるべき存在であってはならない、特に子供のために。
    そう思って真っ当な人間の皮を被って街を歩いて来たのではないかと。
    本当に信代さんが間違っていて、私が正しいのか。
    何かこう、心の真ん中の所を掴んで揺さぶられた様な気になった。

    親は選べない。
    産んだ、という事実の揺るぎなさと危うさ。
    私は息子が8才の夏に、子供の人生の責任を親が取るなどと言うことは絶対不可能な事なのだと、そう体感したことがある。
    その時に産むという行為の暴力性を痛感した。
    勝手に妊娠し、産まれたいのか否かの確認も取らず(正しくは取れず)、幸せになるかどうかの確約もせず(最大限努力するにせよ)、この混沌とした世の中に産み出すのだ。
    そして親は先に死ぬ。
    頭で分かったつもりでいた事でも、体感として分かった時の衝撃は大きかった。
    衣食住の確保、健康的な生活、情緒の育成、教育の機会を滞りなく行ったからと言って責任を果たしたと言えるのか。
    子供が幸せな人生を送れるかは結局本人の力によるところが大きい。
    もし、息子が親を選べたとしたら、私は選んで貰えるのだろうか?
    生計の立て方は置いておいて、あの家族を見せられたら、私は正直自信がない。

    今息子は生というスタート地点から少々進んだくらいの所で、生を背にして歩いている。
    対して私は折り返し地点に差し掛かって、死と言うゴールへ向かい出している。
    そう言うと息子はずるいと言った。
    そう言われても、である。
    親と子なんて永遠に同じ地点には立てない。
    同じ目線で物を見る事も、歩幅を合わせて歩く事も出来ない。
    同じ家に居るだけで、いつも立っている場所もやるべき事も違うのだから。

    誰の手を握るのか、もし選べたのなら。
    完璧な人はいない。
    でもあなたに優しい人はどこかに必ずいる。


    PR

    calendar

    S M T W T F S
     123456
    78910111213
    14151617181920
    21222324252627
    28293031   
    << July 2019 >>

    本棚

    selected entries

    categories

    archives

    recent comment

    links

    profile

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM